メタじいの日常

気が付けば後期高齢者です。孫が6人にもなりました。会うたびに大きくなるのでたのしみです。

妻との対決は

   玄関から今朝の庭を見る


2022年3月28日(月)


起床 6時45分  気温 5℃  降水量 0mm  湿度 61%
天気予報 今日は日差しが届いても雲優勢 昼間は過し易い サクラの開花すすむ
最高気温 16℃  北西の風 1m  乾燥注意報  花粉対策も


春分(しゅんぶん)
 春分とは、太陽が真東から昇り、真西に沈む日のこと。
昼と夜が同じ長さになる春分の時期を二十四節気の大きな節目のひとつとします。
      新暦 3月20日~4月3日
次候 桜始開(さくらはじめてひらく)
     新暦 3月25日~3月29日
   その春に初めて桜の花が咲くころ。
   古来、人は桜を目で、数々の歌を詠んできました。 

   
  旬の魚介(さくらえび):旬の野菜(アスパラガス)



今朝  7時50分  撮影 東の空   すっきりしない青空が広がる
日の出 5時44分   日の入 18時09分
  


昨日、名義変更を依頼していた軽自動車が届いた。


   新しい足


この春から、次女の旦那が単身赴任で中国へ3年間勤務することになり、通勤に使っていた軽自動車を譲り受けることになったのだ。
メタじいの足として使っていたものが、高齢車ということで何かと不都合の起こることが多くなっていたことを察してのことであろう。
転勤の知らせは、時期的には心配なことではあるが、2度目の海外勤務でありやや安心感はある。


また、昨日は夫婦の対決もあった。
その原因となったのが、大相撲春場所千秋楽の出来事だ。


メタじいは元大関の高安を応援し、妻は小柄な新関脇の若隆景を応援していた。


ふたりは、12勝2敗で優勝争いトップタイで迎えた千秋楽。
高安が先に阿炎に敗れて3敗目。
一方妻の応援する若隆景は、結びの一番で大関正代戦に勝てば初優勝が決まる状況となったが、相手の圧力に押し切られた。
両者とも気持ちを切り替えて臨んだ優勝決定戦。
メタじいは冷静を装って応援していたのに、久しぶりに相撲を見て、妻の応援はすごかった。


11日目に対戦したときは押し出したで若隆景が勝った。

若隆景は土俵際まで押し込まれたが、粘り腰で耐え、最後は高安を逆転の寄り切り。


   若隆景勝利の瞬間



   優勝インタビュー

3年ぶりの有観客開催となった大阪で初の賜杯を手にした。


夕食のときには、高安のために乾杯用のビールを買っておいたのだが、妻のために乾杯をして美味しくいただいた。



今朝は薄曇りの天気。
気温も低めであるが、もう寒さを感じることもない。
玄関を出ると中央花壇ノビオラを観察する。


   ビオラ

一株一株が大きく生長してきた。
雑草も多くなっている。


奥のアイリスの花壇を見に行く。


   つくしとビオラ


つくしが日に日にビックリするほど大きく伸びている。


花壇全体につくしが生えてきた。



部屋に入ると、昨日のコロナ新規感染者情報をしらべた。 ( )内は前日の記録 
増えているかと心配していたが、減っていた。


全国  4万3365人 (4万7338人 )


愛知県   2290人 (2595人) 


豊田市    160人 (132人) 


コロナ感染者は増えたり減ったりしているが、一気にはナカナカ減らないですね。



さて、「明日は何の日」というと、3月29日は「八百屋お七の日」です。


1683年(天和3年)の3月29日、18歳の八百屋の娘・お七が、放火の罪で3日間の市中引き回しの上、火あぶりの極刑に処せられたことがゆらいとなっていた。


前年12月28日に江戸で発生した「天和の大火」の際、お七の家は燃えてしまい、親とともに寺に避難した。
お七はその寺で寺小姓・生田庄之介と出会い、恋仲になった。
やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七は庄之介のことが忘れられなかった。


   八百屋 お七


もう一度火事になれば庄之介にまた会えると考えて、3月2日の夜に家の近くで放火に及んだ。
近所の人がすぐに気が付き、ぼやで消し止められたが、その場にいたお七は放火の罪で御用となった。


当時は放火の罪は火あぶりの極刑に処せられていたが、17歳以下ならば極刑は免れることになっていた。
そこで奉行は、お七の刑を軽くするために「おぬしは17だろう」と問うが、その意味が分からなかったお七は正直に18歳だと答えてしまい、極刑に処せられることとなった。


お七が干支の丙午(ひのえうま)の年の生まれであったことから、丙午生まれの女子が疎まれるようになった。
また、丙午生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信に変化して広まったとされる。


八百屋お七は、井原西鶴の浮世草子『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。


ところで吉三郎はどうなったか、気になりますね。


鈴ヶ森でお七が処刑された後、吉三郎は西運という僧になり、全国を行脚して修行をしましたそうです。
また、多くの人から浄財の寄進を受け、さまざまな社会事業を行ったと言われています。


そしてある日、お七が夢枕に立ち、成仏したことを告げたので、『お七地蔵尊』を建立しました。


いま、この御地蔵様と西運上人の像が目黒区の「大円寺」に残されているそうです。




それでは、また明日