メタじいの日常

気が付けば後期高齢者です。孫が6人にもなりました。会うたびに大きくなるのでたのしみです。

雪は 薄化粧がいい

 祭りの様子


2021年1月30日(土) 


起床 5時52分  気温 -3℃  降水量 0mm  湿度 83% 
天気予報  日中曇ったり日差しが出たりと変わりやすい天気  
最高気温 4℃  北西の風 2m  真冬の厳しい寒さが続く 


大寒(だいかん)
  大寒とは、一年でもっとも寒さが厳しいころのこと。
  日がしだいに長くなり、春へ向かう時期でもあります。
       新暦 1月20日~2月3日
 末候  鶏始乳(にわとりはじめてにゅうす)新暦1月30日~2月3日
  鶏が卵を産み始めるころ。
  かつて鶏の産卵期は、春から夏にかけてでした。



今朝 7時32分 撮影 西の空  すきとおる青い空
日の出 6時52分   日の入 17時17分 


良くねむれていたが、寝室が寒くガウンを着てから、5時52分にトイレへいき、居間の石油ストーブに点火する。
昨夜はよく冷えたようで、居間はすごく寒い。


しばらくガウンを着たまま、火の前から動けない。


パソコンが立ち上がると、ニュースなどを見て昨日のことを思い出していた。


昨日は、午後から軽トラックの廃車手続きのためトラック協会の事務局まで出かけた。
行くときは上天気であったが、1時間ほどたったころから粉雪が舞ってきた。
帰りながら家のある北の方角を見ると、黒い雲に覆われていたので雪を心配していた。
近づいても、道路には雪はなく安心して帰れた。

   帰宅後の庭


日の出後30分すぎて、やっとメタじいの家にも日の光が届いてきた。
庭には、昨日からの雪の積もったところへ太陽の光が当たりだしていた。

 別世界


雪は、いつもの見苦しいところを隠して別世界にしてしまう。


  7時30分ごろの庭



さて「今日は何の日」かというと、1月30日は、「孝明天皇祭」でした。
1867年(慶応2年)1月30日  午前11時頃 第121代天皇 - 孝明天皇( こうめいてんのう) が37歳で 崩御されました。

 孝明天皇

明治天皇の先帝である孝明天皇は1月30日に崩御されたため、この日が祭日になりました。
ご命日に合わせ、1月30日 には皇居北側に位置する皇霊殿 および京都の月輪東山陵 にて孝明天皇祭 が斎行されるそうです。

 祭礼資料から

孝明天皇は15歳で即位され、1856年(安政3年)には、アメリカ総領事ハリスが、通商条約の締結を求めて来日します。
ハリスから、日本もアメリカと手を組まないと、イギリスにせめられるかもしれないと幕府は脅されたことから、条約締結の方向へ進みました。

  祭礼資料から

そして条約の草案が完成した幕府は、日米修好通商条約の調印勅許を得る目的で、老中主座を京都に派遣します。1858(安政5年)1月、勅許の要望を受けた孝明天皇は、内輪の人たちに、開国か鎖国かの相談をし、孝明天皇が出した答えは、条約締結の拒否でした。
「勅許を見合わせ、調印の可否は諸大名の衆議をもってすべきこと」と命じました。
ところが、幕府は勅許を得ないまま通商条約に調印をしたことから1860年(安政7年)3月に、桜田門外の変が起き、幕府の大老井伊直弼が暗殺されると、幕府の権威は急激に低下しました。

 祭礼資料から

そこで幕府は、権威低下の回復と、朝廷の権威を利用して反幕的な尊皇攘夷派を抑えるために、朝廷と幕府の融和を図ろうとして、孝明天皇の妹である和宮と将軍徳川家茂との婚儀を提案します。
提案を受けた孝明天皇は和宮の気持ちを知って、これを一時は退けますが、再三の幕府から懇請と、侍従の岩倉具視の説得もあり、ついに攘夷の実行という条件つきで、この婚儀を認めました。
ところが、尊王攘夷派と幕府の主導権争いは激しくなりますが、孝明天皇は1866年(慶応2年)12月25日(新暦1867年1月30日)、在位21年にして崩御されました。
死因は天然痘とされていますが、他殺説も存在し議論となっていますが、今となっては不問とされているそうです。


コロナ禍はまだ緊急事態宣言下にあり、感染者は増減を繰り返しており収束していません。
今しばらくは、慎重な生活を心がけることが肝心です。


これまでに各種災害などで、被災された地域のみなさま


台風や水害で避難されたみなさま


みんなで気持ちをしっかり持ち


ともにがんばってまいりましょう。


復旧に向けても ともに頑張りましょう
  そして
救助・復興・治療にあたってくださる みなさま